邪馬台国論についてはホームページにも随分沢山の推理や意見が掲載されております。 歴史的にみても江戸時代の本居宣長以来、歴史学者、考古学者、作家、大学教授等の 諸先生方から研究報告、論文、小説等色々な形で発表されておりますが未だに結論は 出ておりません。否、恐らく未来永劫に結論は出ないだろうと私は思っております。
 古代の歴史に於いて、征服者は被征服者を徹底的に容赦なく抹殺してしまったケースも 多々あります。邪馬台国(古代ヤマトの国)は完全に抹殺され宝物だけは我が国初代国家の シンボルとして纏向(三輪山麓)に運ばれ古墳に葬られたと思います。 だから、今後の発掘に於いて卑弥呼の遺品が大和で発見されたとしても、 邪馬台国が大和(機内)とは言い切れない、邪馬台国と卑弥呼論は永遠の謎であり、 永遠のロマンでしょう。そこで、以下にその推理を分かりやすく簡単に物語としてみました。


幻想の古代初代国家(油彩6号)

 今を去ること2200年頃、秦の始皇帝の命を受けた徐福は東海に浮かぶ神秘の国、 倭国へ不老不死の秘薬を求めて多数の童男童女を連れて渡来した。そして彼らは2度 と故郷に帰ることはなかった。その子孫に仙人的な少女がいた。皆は少女をヒメミコと呼んだ。 その後、倭国の北九州各地に渡来人による国々が出来たが常に争いは絶えなかった。
 150-170年頃、北方騎馬民族の王とヒメミコは意気投合して宇佐に新国家を作ったが 素より北方系騎馬民族と大陸系農耕民族では意見が合わず、ヒメミコは筑紫周辺に ヤマトの国(邪馬薹国)を築き、一方の騎馬民族の王(狗古智卑狗)は日向の西都原に 新国家(投馬国)を作って後の狗奴国の基礎を築いた。
 ヒメミコは北九州の30国の首長から押されてその連合国の女王となった。 ヒメミコは参謀の難升米を立てて魏と外交をひろめ多くの文化や新しい技術を取り入れた。 一方騎馬民族の王は中部九州を統合し熊襲として恐れられた。 又熊信仰を広め 次第に力を付けていった。次はヤマトの国を我が物にしたいと考え出した。 しかしヤマトの国には昔の相棒のヒメミコがいる。 それにヒメミコには魏が後楯にいる。王は時期を待った。

 248年、折しも皆既日食が起こり暗闇となりヒメミコの霊能力は衰え死亡した。 ヒメミコはかっての王国があった宇佐に葬られ大きな円墳が作られた。 お供のもの100余名が殉職したと言われている。後に円墳の上に有名な宇佐八幡宮が建てられた。
 その後ヤマトの国では再び争いが始まったがヒメミコの宗家の台世が女王となり収まった。 しかしヤマト統一の野望に燃える熊襲の王はチャンス到来とヤマトの国に攻めいった。 後楯の魏も落ち目になっており、支援のないヤマトの国は滅亡した。熊襲一族はヒメミコの遺品、 宝物を略奪しヤマトの国を跡形もなく消滅させ、より良き新天地を目指して畿内へ向かった。 浪速に上陸した彼らは豪族を倒しながら兵を集めて、三輪山西麓、河内湖の上流、纏向に集結し 崇神王国の豪族を倒しての河内政権の誕生となった。初代古代国家ヤマトの国の略奪品を ステイタスシンボルとして大きな円墳を造営して先祖の墓とした。ヒメミコの遺品も一緒に。 この間約100-130年を費やしており、その時代を後の人々は謎の4世紀と呼んでいる。 河内政権の初代の王は応神天皇と言われる。後に大陸ではヒメミコの事が倭人伝に卑弥呼と記述され、 日本では神格化されて天照大神となり、騎馬民族の初代王は天照の弟のスサノオとなった。 初代ヤマトの国の遺品を葬った円墳は5世紀初めに改築され前方後円墳をなった。
この古墳を箸墓古墳といっている。